『夢の素』と『除染』
「この石たちは何故この場所にいるのだろう?」
河原に立って「僕の足もとから広がる石たち」を眺めると、そんなコトを考える。
(あのね、「足もとから広がる石たち」と表現したのはね、膨大な量の石たちに覆いつくされた河原には中心が無いの。 もちろんソレは僕の個人的な考え、、と言うか感覚でしかないのだけれど、河原では僕が立っている場所が河原の中心になるんだ。 だから常に石たちは僕の足もとを同心として円を描くように広がってゆく。 まるで水面に描かれる波紋のように、、、ね。)
「きょう僕は朝から河原にいて石さがしをしてました」
僕の住んでいる街は山から吹き下ろされる風がもの凄く冷たくて強いの。 河原は山からの風が遮るモノ無く真っ直ぐにやってくるのでソレはソレはもの凄く寒い。 だからシャツの下にTシャツ3枚重ね着してその上にあたたかグレーのヒートテックを着て、モコモコートを着てコートのフードかぶって石さがしをしてました。
『夢の素』 子どもたちが自分で考えた『自分のマーク』を描くための石ですね。
これだけたくさんの石があるのだから「ぱっぱかぱっぱか」次々に見つかりそうなものだけどそうはいかないのは何故だろうか? ソレにはいろんな要因がからんでくるんだけど(もちろん僕の好みにも影響されるんだけど、、)いちばんは石が来たがっているかどうかなんだよね。 石が「リベラに行く!」って言ってくれないと、それはやっぱり連れては帰って来れないのです。
はい、この子たちを先ずは自宅へと連れ帰りました。
なぜ自宅なのかと言うと(別に自宅でなくとも良いのですが、、笑)除染作業があるのですね。
いつもなら「ササッ」とブラシで水洗いする程度なのですが、今回はそれだけってわけにはいきませんものね。
先ずは、ザッと水洗いしてから流水でブラシをかけながら3回洗い、
そのあと流水でもう3回洗いました。
「大丈夫ですかね?」
リベラの生徒さんたちの親御さんもブログを読んでくれてたりするので、、一応ここでもご報告です。
後日、「お知らせリベラ」の手紙にも書かせてもらいますが、、、『選択の自由』はいまの福島では絶対に必要ですからね。 自分で選択出来ない限りは納得もできないと思うのです。 とにかく石たちはしっかりと洗わせてもらいましたので、、どうぞよろしくお願いいたします。
「でもね、、、」
石たちに話しをしながら石たちを洗わせてもらってたんだけど石たちが悲しそうに思えてしかたなかったのでした。(僕の主観です)
本当なら(本当ってなんだろう?)石は神聖な者です。(僕の信じるコトです)
人の手など全く必要とせずに、、、川の水に磨かれて雨に磨かれて風に磨かれて太陽の光に磨かれて月明かりに星明かりに磨かれて、、、人の手など全く必要とせずに『神聖な者たち』なのです。
「だのに、、、ね」
「子どもたちには感じてほしいな、、と思うんだ」
「何を?」と訊かれても上手くは説明出来ないのだけれど、、「河原の中心に立って僕が感じているようなコト」を、、かな? 自然の中心に立っているのは、常に自分なんだってコトかな? そして、自然の中心に立っているのは自分なんだってコトの意味をはき違えて理解してしまったら、、そこに残されるのは「人間の驕り」だけなんだ、、、ってコトをかな?
やっぱり上手く文章に出来ないけれど、、、ね。
「石ころひとつで何を大袈裟な事を言ってんだか?」と思われる(苦笑いされる)かもしれないけれど、、本当に大袈裟なコトだろうか?
「ねえ?」
僕らが住んでいるこの惑星(ほし)が、
大きな大きな宇宙と言う河原(せかい)にころがっている『石ころ』なんだってコト、、、
「みんな理解(わか)ってんのかな?」
それをみんなが理解出来てたら、
「きっと世界は変わるんだろうな」
そう僕は思うんだよ。
さあ!
子どもたちはこの石たちを、どんなモノタチに生まれ変わらせてくれるのだろうか?
(ここから何が始まろうとしてるんだろうか?)
僕が何故この石たちを『夢の素』と呼んだのか?
何故なら、、
「世界は一つの石ころから誕生したからだよ!」
(微笑)
河原に立って「僕の足もとから広がる石たち」を眺めると、そんなコトを考える。
(あのね、「足もとから広がる石たち」と表現したのはね、膨大な量の石たちに覆いつくされた河原には中心が無いの。 もちろんソレは僕の個人的な考え、、と言うか感覚でしかないのだけれど、河原では僕が立っている場所が河原の中心になるんだ。 だから常に石たちは僕の足もとを同心として円を描くように広がってゆく。 まるで水面に描かれる波紋のように、、、ね。)
「きょう僕は朝から河原にいて石さがしをしてました」
僕の住んでいる街は山から吹き下ろされる風がもの凄く冷たくて強いの。 河原は山からの風が遮るモノ無く真っ直ぐにやってくるのでソレはソレはもの凄く寒い。 だからシャツの下にTシャツ3枚重ね着してその上にあたたかグレーのヒートテックを着て、モコモコートを着てコートのフードかぶって石さがしをしてました。
『夢の素』 子どもたちが自分で考えた『自分のマーク』を描くための石ですね。
これだけたくさんの石があるのだから「ぱっぱかぱっぱか」次々に見つかりそうなものだけどそうはいかないのは何故だろうか? ソレにはいろんな要因がからんでくるんだけど(もちろん僕の好みにも影響されるんだけど、、)いちばんは石が来たがっているかどうかなんだよね。 石が「リベラに行く!」って言ってくれないと、それはやっぱり連れては帰って来れないのです。
はい、この子たちを先ずは自宅へと連れ帰りました。
なぜ自宅なのかと言うと(別に自宅でなくとも良いのですが、、笑)除染作業があるのですね。
いつもなら「ササッ」とブラシで水洗いする程度なのですが、今回はそれだけってわけにはいきませんものね。
先ずは、ザッと水洗いしてから流水でブラシをかけながら3回洗い、
そのあと流水でもう3回洗いました。
「大丈夫ですかね?」
リベラの生徒さんたちの親御さんもブログを読んでくれてたりするので、、一応ここでもご報告です。
後日、「お知らせリベラ」の手紙にも書かせてもらいますが、、、『選択の自由』はいまの福島では絶対に必要ですからね。 自分で選択出来ない限りは納得もできないと思うのです。 とにかく石たちはしっかりと洗わせてもらいましたので、、どうぞよろしくお願いいたします。
「でもね、、、」
石たちに話しをしながら石たちを洗わせてもらってたんだけど石たちが悲しそうに思えてしかたなかったのでした。(僕の主観です)
本当なら(本当ってなんだろう?)石は神聖な者です。(僕の信じるコトです)
人の手など全く必要とせずに、、、川の水に磨かれて雨に磨かれて風に磨かれて太陽の光に磨かれて月明かりに星明かりに磨かれて、、、人の手など全く必要とせずに『神聖な者たち』なのです。
「だのに、、、ね」
「子どもたちには感じてほしいな、、と思うんだ」
「何を?」と訊かれても上手くは説明出来ないのだけれど、、「河原の中心に立って僕が感じているようなコト」を、、かな? 自然の中心に立っているのは、常に自分なんだってコトかな? そして、自然の中心に立っているのは自分なんだってコトの意味をはき違えて理解してしまったら、、そこに残されるのは「人間の驕り」だけなんだ、、、ってコトをかな?
やっぱり上手く文章に出来ないけれど、、、ね。
「石ころひとつで何を大袈裟な事を言ってんだか?」と思われる(苦笑いされる)かもしれないけれど、、本当に大袈裟なコトだろうか?
「ねえ?」
僕らが住んでいるこの惑星(ほし)が、
大きな大きな宇宙と言う河原(せかい)にころがっている『石ころ』なんだってコト、、、
「みんな理解(わか)ってんのかな?」
それをみんなが理解出来てたら、
「きっと世界は変わるんだろうな」
そう僕は思うんだよ。
さあ!
子どもたちはこの石たちを、どんなモノタチに生まれ変わらせてくれるのだろうか?
(ここから何が始まろうとしてるんだろうか?)
僕が何故この石たちを『夢の素』と呼んだのか?
何故なら、、
「世界は一つの石ころから誕生したからだよ!」
(微笑)
by yoshikazusuzuky
| 2012-01-08 22:22
| かいがきょうしつ リベラ
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