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スズキヨシカズ幻燈画室

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満月ノ晩ノ蒼色幻燈会 ... 始マリ始マリ

50歳

先日50歳の誕生日をむかえまして
たくさんたくさんお祝いの言葉をいただきました。
「ありがとうございました」(感謝感謝)


昨年の誕生日に
ヒマリちゃんが作って
くれた、、
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かいがきょうしつリベラ限定
『YOSHIKAZU 49(Forty-nine)』 T- シャツ
です。(わらら)


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きょうはヒマリちゃんが T- シャツ を作り直してくれました。


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「ジャジャン!!」

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『YOSHIKAZU 50(Fifty)』 T- シャツ
です。(わらららら)


「50歳もヨシさんは頑張るぞー!!」  /(^0^*


『復興の祈り ふくしま2016』で
忙しくしていたのでなかなかご紹介出来ずにいた
「つくりびと」第44号コラムを
ご紹介させていただきます。


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僕が福島県白河市に子どもたちとかかわれる場所を設けて二十年になる。天球儀. 地球儀. 様々な鉱物や化石の標本。宇宙ロケットや恐竜の模型。古い写真機や顕微鏡に天体望遠鏡などが雑多に置かれ、たくさんの絵本や図鑑やジャンルを問わず僕が興味を持っているありとあらゆる本が積み重ねられた壁に囲まれて、子どもたちは毎日「何か」をやっている。
 もちろん絵を描くし立体物も作るのだが、 画用紙よりも多い枚数が常備されている原稿用紙に文章を書いてもらうコトもある。(絵から文章を導き出すコトもあれば文章をもとに絵を描くコトもある)「かいがきょうしつなのになんでさくぶんかかされるの!」机の上に原稿用紙が用意されているのを見ると毎回子どもたちは口々に強い不満の意を表明するのだが「絵も作文も一緒だから」と言う僕の曖昧な説明に納得がいかないままに丸め込まれてしまう。
とにかく一ケ月毎に様々なテーマで様々なコトをするのだが、十二月には必ず『自画像』を描き、その画面に『将来の夢』を(文字で)書き込んでもらっている。他の作品は出来上がると家に持ち帰るがこの自画像だけは教室預かりで僕が保管している。幼稚園から通っている子なら、リベラを卒業して行くまでに七~八枚の自画像を描くコトになる。そして卒業まで様々に変わってゆく「子どもたちの夢」をわくわくしながら少しだけ覗き見させてもらうのが僕の楽しみとなっているのだ。リベラを卒業して行った一番上の子らは、すでに成人してそれぞれに選んだ地でそれぞれが選んだ道を夢に向かって歩んでいる。
自画像に話を戻そう。鏡を見ながら自分の顔を描くのは大人でもなかなか勇気のいる作業だったりする。鏡の中の自分の顔を見つめ続けているとその顔が他人の様に見え始め、やがて客観的に自分の内面と向き合っている自分に気づき(大袈裟ではなく)ショックを受けるのだ。しかし子どもたちはそこまで考えないのでは?と思われるかもしれないが子どもたちは考えるまでもなく直感的にソレを感じているので、十二月の自画像は作文同様子どもたちには不評なテーマなのだ(苦笑)。机の上には画用紙と鏡が用意される。鏡を食い入るように見ながら描く子もいれば、鏡の中の自分になど一瞥もくれずに鉛筆の先っぽだけを見て描く子もいる。しかしどちらにも共通するコトがある。それは、鏡を見ても見なくとも描き上がった絵は自分自身の顔になっているのだ。「絵ってジャガイモを描いても自分に似てしまうから不思議なんだよね」僕が絵を描き始めたばかりの頃に誰かが言っていたのだが、何故だか不思議とその言葉だけは薄れるコトなく頭の中に残っている。自画像の仕舞いに絵の中に「将来の夢」を書き込んでもらう。その「夢」なのだが、ここ数年間で大きな変化を感じる。自画像を始めた頃の画面には様々な職業名が書かれていた。現実的な職業ばかりでなく、まさに夢のような職業も書かれてあった。
ところが四、五年前からそこに「収入による生活の安定」を求める職業名が表され、二、三年前からは「夢はない」と書く子が増え始めた。そしてついに昨年末には半数近い子の自画像に「夢はない」と書き込まれていたのだ。夢はない?夢が無いなどと言うコトがあるのだろうか?子どもたちに話を聞くと決まって同じ内容の返事がされる。「そんな実現するどうかもわからない夢みたいなコト書けないよ」夢みたいなコト?「夢」に定義があるのかどうか僕にはわからないが「実現出来るかどうかもわからないコトを夢見るコトも夢なのではないだろうか?」そして「夢見ている自分を感じたその瞬間から夢は自分自身の一部分となるのではないだろうか?」年齢に関係なく、将来の設計図を頭の中に想い描き組み立ててゆく作業を始めるのは大切なコトだと思う。けれどもその設計図は、消えないインクで描かれた決定稿である必要はない。何時でも何度でも描き直せる、鉛筆と消しゴムの「下絵描き」で十分だと思うのだ。一概には言えないが、最近の子どもたちと子どもたちが描く絵を見ていると不安になる。あまりにも順序立てて物事を考え過ぎるので、小さな段差でつまずいて立ち止まるとそれを自分の失敗と感じそこから先へは進めなくなってしまうのだ。「臨機応変」という言葉が重たすぎるのならば「行き当たりばったり」でも良いと思う。何かに興味を感じるコトで次の興味が生まれて来る。夢中になれる何かを探して、次々と目の前に現れてくる「道標(みちしるべ)」を辿って行くのだ。「夢はない」なんて有り得ない。それは虚ろな言葉でしかない。夢を見てほしい。夢を見られる舞台が、真っ白い画用紙であり柔らかな粘土の塊であり空白の升目が並ぶ原稿用紙なのだ。その舞台へと一歩を踏み出してほしい。そこは子どもたちが主役の自由な世界であり、何時何時(いつなんどき)でも子どもたちを受け入れる準備が整っている。創造する(想像する)コトを通して、色鮮やかで豊かな自分だけの夢の世界に遊んで欲しい。いつでも僕は子どもたちにそれを願っている。



44号では「夢見るコト」について書かせていただきました。



ほんと、、
もっと意識を開放して
自由に遊べたら
良いのにな、、と思います。



、、で
いままさに
このときも、、45号の原稿締め切り間近で
バタバタ(あたふた)
している僕なの
です。(あすの夜には入稿するぞ!)





(微笑)
by yoshikazusuzuky | 2016-03-16 00:27 | 繋がる想い | Comments(0)

by yoshikazusuzuky