『笑う男』と『老いた日の自我像』 その二
昨日のつづき、、、。
いつでもそんな(「そんな」って言い方は失礼ですよね)坑夫上がりのじいちゃんたちとばかりつるんでいたせいだろうか?
ある日、突然、84歳になったときの自分を絵に描きたくなったのです。 「なんで84歳なの?」 なんででしょうね。 「何故?」よりも何よりも馬鹿げて聞こえる話しですよね。 なんだか自分でもよくわからないけれど84歳の自分をイメージしてしまったのでした。
あくまでも『イメージ』としての『84歳』です。(あたりまえですね)
よくインスタント食品のパッケージ写真の隅っこ辺りに小さな文字で「これはイメージです」とか「盛りつけの一例です」とかって書いてありますよね? あんな感じです。(意味不明?)あくまでイメージなのです。 意識の中の現実の、すぐ数cmとなりに存在する世界の話しなのです。(笑)
まあそれはそうですよね。
84歳どころか、この絵を描いたのが20代後半ですからね。
1年後、いや一週間後の自分をさえイメージ出来ていないのに、50年以上も先のコトなんて、、、ね? 想像の範囲を超えていますよね。
いったい何を考えていたのでしょうか?
でもね、この絵を描いていた頃は、よく同じ夢を見ました。 夜に、睡眠(ねむり)の中に見る『夢』です。
繰り返しではないのだけれど、それらはどれも『同じ夢』(同じメッセージ性を持った夢)のように僕には思えましたね。
その夢の中には季節も時間も存在しません。 何も存在しない。 何も存在しない夢の中の僕は、もちろん年齢も(もしかしたら性別さえも)失っているのです。
僕が、僕と言う肉体を持っていたのかどうかさえも怪しかったと思う、、、。
ストーリー性を無視した脈絡のない『夢』ばかりでした。
まさに『意識の中の現実の、すぐ数cmとなりに存在する世界』で起こっている出来事を夢の中に見ている感じでした。
目ざめた時には、もう何も覚えていないのに、『夢の思惑』のようなものだけは、くっきりと、僕の中に残されているのです。(『夢の思惑』っていったい何だ?)
それは無意識の領域で秒刻みに感じ取っていた、僕自身の『自我バランスの移動』(書いていて、自分でもこの言葉の意味がわかりませんが)だったのかもしれません。 「僕は移動し続けているのです」 「僕は移動し続けていたのです、、常に」 自我が均衡と調和を求めて僕の意識の領域を移ろっているのです。
僕の中を、たくさんのモノタチが行ったり来たりしていたのです。(いまもそうなのだろうか?)
この絵は、『老いた日の、、、』と題名にうたいつつも、あの時、瞬間瞬間の、自分自身に違いなかったのだと思います。
スズキヨシカズ絵画作品 『老いた日の自我像』
ちょっとだけ違うカテゴリーに属するモノかもしれないけれど、僕の友人が、僕を撮ってくれた写真を添えてみます。(勝手に載せたらおこられるかな? 黙っとこう、、、)
『僕のポートレート』
この写真を撮ってくれた僕の友人の感性はいろいろなモノたちを超越しています。
この写真は間違いなく僕の肖像なのです。
ものすごく気に入っている肖像写真なのです。
(ちなみに『風花画廊』の作家ページに掲載されている僕のポートレートも、その友人が撮ってくれたものです。(勝手に載せちゃったんだけど、、おこられるかな? 黙っとこう、、、)
いつでもそんな(「そんな」って言い方は失礼ですよね)坑夫上がりのじいちゃんたちとばかりつるんでいたせいだろうか?
ある日、突然、84歳になったときの自分を絵に描きたくなったのです。 「なんで84歳なの?」 なんででしょうね。 「何故?」よりも何よりも馬鹿げて聞こえる話しですよね。 なんだか自分でもよくわからないけれど84歳の自分をイメージしてしまったのでした。
あくまでも『イメージ』としての『84歳』です。(あたりまえですね)
よくインスタント食品のパッケージ写真の隅っこ辺りに小さな文字で「これはイメージです」とか「盛りつけの一例です」とかって書いてありますよね? あんな感じです。(意味不明?)あくまでイメージなのです。 意識の中の現実の、すぐ数cmとなりに存在する世界の話しなのです。(笑)
まあそれはそうですよね。
84歳どころか、この絵を描いたのが20代後半ですからね。
1年後、いや一週間後の自分をさえイメージ出来ていないのに、50年以上も先のコトなんて、、、ね? 想像の範囲を超えていますよね。
いったい何を考えていたのでしょうか?
でもね、この絵を描いていた頃は、よく同じ夢を見ました。 夜に、睡眠(ねむり)の中に見る『夢』です。
繰り返しではないのだけれど、それらはどれも『同じ夢』(同じメッセージ性を持った夢)のように僕には思えましたね。
その夢の中には季節も時間も存在しません。 何も存在しない。 何も存在しない夢の中の僕は、もちろん年齢も(もしかしたら性別さえも)失っているのです。
僕が、僕と言う肉体を持っていたのかどうかさえも怪しかったと思う、、、。
ストーリー性を無視した脈絡のない『夢』ばかりでした。
まさに『意識の中の現実の、すぐ数cmとなりに存在する世界』で起こっている出来事を夢の中に見ている感じでした。
目ざめた時には、もう何も覚えていないのに、『夢の思惑』のようなものだけは、くっきりと、僕の中に残されているのです。(『夢の思惑』っていったい何だ?)
それは無意識の領域で秒刻みに感じ取っていた、僕自身の『自我バランスの移動』(書いていて、自分でもこの言葉の意味がわかりませんが)だったのかもしれません。 「僕は移動し続けているのです」 「僕は移動し続けていたのです、、常に」 自我が均衡と調和を求めて僕の意識の領域を移ろっているのです。
僕の中を、たくさんのモノタチが行ったり来たりしていたのです。(いまもそうなのだろうか?)
この絵は、『老いた日の、、、』と題名にうたいつつも、あの時、瞬間瞬間の、自分自身に違いなかったのだと思います。
スズキヨシカズ絵画作品 『老いた日の自我像』
ちょっとだけ違うカテゴリーに属するモノかもしれないけれど、僕の友人が、僕を撮ってくれた写真を添えてみます。(勝手に載せたらおこられるかな? 黙っとこう、、、)
『僕のポートレート』
この写真を撮ってくれた僕の友人の感性はいろいろなモノたちを超越しています。
この写真は間違いなく僕の肖像なのです。
ものすごく気に入っている肖像写真なのです。
(ちなみに『風花画廊』の作家ページに掲載されている僕のポートレートも、その友人が撮ってくれたものです。(勝手に載せちゃったんだけど、、おこられるかな? 黙っとこう、、、)
by yoshikazusuzuky
| 2011-02-28 23:11
| スズキヨシカズ的アート
|
Comments(2)
Commented
by
ひめママ
at 2011-03-01 00:57
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均衡を保つために無意識と意識のドアを開け放って、行ったり来たり・・・ってフロイトも言っていた?ような?・・・。とにかく人はそうやって均衡を保ちながら生きているのでしょうね。
blogに「黙っとこ」・・・これには爆笑です(^^)・・・人生に笑いは必要ですね(^^)ハイ
blogに「黙っとこ」・・・これには爆笑です(^^)・・・人生に笑いは必要ですね(^^)ハイ
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by
yoshikazusuzuky at 2011-03-01 15:48